11 // 母の面影




 龍麻のはじめての遠足は無事に済んだ。
 この場合の無事というのは、柳生にとってということになるかも知れない。懸案であった弁当も、夜中の3時から作った甲斐あって、可愛らしく作り上げることができた。あまりのできばえに、記念写真を撮ったほどである。
「それでね、ひすいちゃんがね」
「うむ」
 体を洗って貰いながら、龍麻は今日あったことをとりとめなく話し続ける。これもまた、二人の日課のひとつだ。
「暖まるぞ」
 髪もきれいに洗ってやり、柳生は龍麻を抱いて湯船につかった。多いとはいえない髪がぴちゃりと額にくっついているのを、大きな手ですくって後ろへ流す。龍麻のお気に入りのひとつ、アヒルのオモチャがちゃぷちゃぷと波に乗って泳いでいる。
 いつもどおりの入浴であったのだが。
「……おとしゃ」
 柳生の膝にちんまり向き合って座っていた龍麻が、不意に手を伸ばした。
「どうした。肩までつからねばならぬぞ」
「おとしゃ、おっぱい」
 言いながら、そぉーっと柳生の胸に触る。
 鍛えられた、鋼のような胸筋は見事な張りだ。子供が触れたくらいでは、びくともしない。が、無論、感覚がないわけではない。
「どうした」
「かたかたいね」
 さわさわと、小さいが器用な指が大胸筋を撫で、乳首をまさぐる。これはさすがにくすぐったい。柳生は慌てて龍麻の手を掴んだ。
「龍麻、よさぬか」
「…かたかたい」
「龍麻…」
 がっかりとした龍麻の様子に、柳生は言いようのない不安を感じた。
「………龍麻は母と風呂に入りたいのか」
「……」
 黙ったまま、小さな頭がこくりと頷いた。
 これまで、親のことで文句のひとつも言ったことのない龍麻である。余程に思うことがあったのだろう。保育園で何かあったのかもしれない。
「……そうか」
「…おとしゃ、だいすき。でもおかしゃんもすき」
 顔も知らない母のことを大好きだという龍麻に、何がしてやれるというのだろう。
 弁当をつくったり雑巾の縫ってやったりと、甲斐甲斐しく母親代わりを勤めようとも、柳生に柔らかな乳房はない。どれほど龍麻を愛していても、こればかりは何ともしようがない。
 柳生には龍麻を抱きしめるのが精一杯だった。




 その翌日。
 龍麻はすっかりいつもの調子で、機嫌良く保育園へ行った。が、柳生はそうはいかなかった。愛情が深ければ深いほど、越えられない溝もまた深い。柳生は昨晩から引きずったブルーな気持ちのまま、その日を過ごした。
 気がつけば放課後である。
 期末テストの仕度のために、数人の教師が職員室に残っていた。特別教室のない教員は、職員室が主な仕事場である。国語教師である柳生もそのひとりで、教科書を見ながら問題文を作成していた。  が。
 これが手に付かない。
 龍麻と亡き弦麻、そして迦代の顔がちらちらとよぎって気が散るのだ。柳生には珍しいことだった。
「……母親か」
 柳生自身、母の顔を知らない。自分自身の誕生が母の命を落とさせた。龍麻と似た境遇と言えるだろう。
 寂しいと感じたことがなかったといえば嘘になる。あのくらいの年であれば、ふとした時に、母が恋しくなるのは不思議ではない。理屈ではないのだ。
「……」
 柳生は深い溜息をついた。
「柳生先生、クッキーはいかがかしら?」
 気が付くと、マリア・アルカードが側に立っていた。例の如く、きわどいほどに短いスカートと胸を強調するようなデザインのスーツを着ている。その見た目によらず、気配に聡い柳生に悟られず近付いてきたとは大したものである。
 マリアはクッキーの缶を差し出した。
 柳生は缶を見、それから視線を僅かに上にあげ、そしてしみじみと嘆息した。
「…実に見事な乳房をしておる」
 ぱしぃん
 まるでマンガの効果音のように、乾いた大きな音が職員室に響き渡った。マリアが柳生の横っ面を思い切り平手で打ったのだ。
 その場に残っていた幾人かの同僚達は、はっと柳生とマリアを見た。皆の背筋は、凍っているかのように真っ直ぐに伸びていた。
「すまぬ」
「どうなさったの?」
 怖ろしいほど素直に謝った柳生に、マリアが尋ねた。何が起きているのか知りたいのは、ギャラリーも同じである。知らぬ顔を決め込みつつ、聞き耳だけは立てている。
「……龍麻のことは覚えておられるか」
「ええ、もちろんですわ」
 マリアは真っ赤な唇で見事な弧を描くように笑んだ。
「龍麻は、母の乳房が恋しいらしいのだ…」
 肩を落とした柳生に、マリアが瞠目した。
「…まあ…龍麻ちゃんのママは?」
「すでに亡い。あの子は母親に抱かれたこともない」
「……なんてこと…」
 マリアは沈痛な表情で柳生を見た。
「こればかりは、男ではなんともしてやれぬのだ」
 それが辛いのだと言外に滲む。
 マリアは胸の下で腕を組んだ。長い指を口元に添えると、手入れの行き届いた爪先が艶めかしく煌めいた。
「龍麻ちゃんはワタシのことを覚えているかしら」
「マリア先生」
「ワタシでよければ、一日龍麻ちゃんのママになってあげたいわ」
 マリアはふふ、と唇をすぼめて笑った。
「それは有り難い申し出であるが…迷惑ではないのか」
 じっと耳目凝らしていた真神学園職員一同は、成り行きに驚きつつ、固唾を飲んだ。
「ワタシ、龍麻ちゃんがとても」
 マリアはそこで一旦言葉を切った。柳生を見つめ、婉然と笑む。
「…とても気に入っていますの」
 こうして話はまとまった。

 ならば早い方が良いと。
 その日、柳生はマリアと連れ立ってひよこ保育園へ行った。
 夕方6時の保育園は、お迎えに来る親たちと帰りしたくの子供たちでごったごったと大変な騒ぎになる。まして、新宿駅に近いひよこ保育園であるから、扱っている園児の数も多い。
 それはもう、大騒ぎである。
「これが保育園というものなのね」
 マリアは興味深そうに建物をみた。鉄柵の門扉と頑丈なコンクリートの塀は、可愛らしい水色で塗られ、ひよこの絵がいくつも描いてある。
「なんだか隔離されているみたいだわ」
 海外の教育関係者らしい率直な感想を口にする。柳生は苦笑し、高い位置につけてある重い閂をあけて門を開いた。
「こうせねば、子供たちを護れぬらしい。新宿も何かと物騒なのだ」
「まぁ…」
 マリアは悲しげに溜息をつき、柳生について保育園の中へと入っていった。
 園内は、端的に言えばミニチュアの世界である。どれもこれも膝下以下の遊具、棚、テーブルに椅子。絵本の山にたくさんの積み木、それからアニメビデオのライブラリがある。
「ここで待っていてください。龍麻を連れてくる」
「わかりました」
 マリアは園内には上がらず、側の教室を覗いて待つことにした。もう無人の教室の壁には、子供たちの絵が一面に貼り出されていた。  それを眺めていたマリアに気がついた子供たちが、隣の教室からどんどんと顔を出した。
「わあー」
「だれのおかあさんかな」
「きんぱつだーきんぱつだー」
「きれーい」
 口々に言い合う子供たちは、姦しいことこの上ない。マリアはその声に気がつき、にっこりと笑みかけた。雑談が、わあーっという歓声に変わる。場所柄、外国人が珍しいわけではないが、それでもやはり間近に見る金髪美女はインパクトがあるものらしい。
 帰り支度の荷物をまとめ、柳生が龍麻の手をひいて出てきたとき、子供たちの歓声がひときわ大きくなった。
「たつまくんのおかあさんなんだ!」
「ひゆうたつまくんのおかあさんー!」
 わあわあがやがや言う中で、龍麻が困ったように柳生を見上げた。
「まりあせんせいはおかしゃんじゃないよ」
「…うむ。今日だけは、そうなのだ」
「え?」
 ぱちぱちと、龍麻が音をたてて瞬きすると、マリアが今まで以上の笑顔を浮かべた。
「お帰りなさい、龍麻」
 龍麻「ちゃん」ではなく、龍麻。マリアは確かにそう呼んだ。
「おかしゃんの…?」
「ああそうだ。今宵だけだが、マリア先生はお前の母となってくれる」
「おかしゃん……」
 龍麻の頬が、桜色からばら色になった。荷物を放り出すようにして、マリアの元へ駆け寄った。
「おかしゃん?」
「そうよ、龍麻」
「おかしゃん!」
 腰をかがめ、龍麻を抱き上げたマリアは、頬に頬を寄せた。龍麻は両手両足を力いっぱい伸ばし、蝉のようにマリアにしがみついている。
「おかしゃん…いいによい……」
 まさに夢見心地といった様子である。
 子供にとって、乳房というのは母性の象徴だ。本当に幼いときに両親と別れてしまっている龍麻にとっては、母に抱きしめられるというのは積年の夢とでも言うべきものだったのかもしれない。
 そんな二人の様子を見ながら、柳生は戸惑っていた。
 龍麻が喜ぶのが嬉しいという素直な気持ちと、胸のどこかがちくりと痛む嫉妬心。千鳥格子よろしく互い違いに思いが乱れ、柳生は気づかないうちに拳を握り締めていた。
「おとしゃーかえろうー」
 我に返してくれたのは、龍麻だった。靴を履いてマリアと手をつないで待っている。柳生は慌てて二人に並んだ。
 強面の父、美人の母、そして愛らしい子供。
 保育士の先生たちも残っていた保育園児たちも、お迎えに来ていた親たちも、呆気に取られてそれを三人を見送った。


 夕食は、龍麻の好物・カレーライスだった。
 マリアが柳生の割烹着を着て台所に立ってくれたのも、龍麻にはとても嬉しいことだった。好きなアニメ番組さえ見ず、マリアの側でお手伝いに励んだのだから相当だろう。
 いつもちゃんとお手伝いをしてくれる龍麻なのだが、今日は気合の入りようが違っていた。
「龍麻、お風呂に入りましょうか」
「はい、おかしゃ!」
 夕食の片付けを終え、マリアがさらりと言った。
 これには柳生も驚いた。
「マリア先生、そこまでしては…」
「いけないかしら?」
「いや…しかし」
 基本的に、真面目な柳生宗崇である。
 剣術を嗜む者でもあるし、道徳・規範には意外に喧しい。彼の判断基準からして、独身の女が、子供がいるとはいえ、男の部屋で風呂に入るというのはよろしくないことであると思われた。
「おふろーおかしゃんとおふろー」
 しかし龍麻はもう、上機嫌もいいところだった。自分のたんすの引出しから、着替えを出し、背伸びしてバスタオルも取った。そしてさっさと服を脱ぎ、裸になって風呂場に走っていった。
 普段おっとりとした龍麻にしては、恐ろしい早業だった。
「………」
 柳生は言葉を見失い、マリアは笑った。
「今日は龍麻を寝かしつけて帰りますわ。だって、ワタシの可愛い息子ですもの」
 マリアは少し目を細めて言い、風呂場へ向かった。


 まもなく聞こえてきた湯を使う音に、柳生はなぜだか赤面した。


 やることもない柳生が夕刊を読んでいると、玄関を蹴る音が聞こえた。
「柳生、いるだろう」
「…鳴瀧か、どうした」
 新聞を置き、柳生は玄関へ行った。
「手が塞がっている。ここを開けろ」
「……」
 偉そうな旧友に従い、柳生はドアを開けてやった。言葉の通り、鳴瀧は随分と重そうなダンボール箱を抱えていた。
「受け取れ」
「…なんだ、これは」
 鳴瀧は柳生にダンボール箱を押しつけた。せいせいしたと言わんばかりに靴を脱ぎ、家にあがる。
「何だ、客があったのか」
 鳴瀧は居間に出されていたコーヒーカップに気が付いた。
「ああ。それより、これは何なのだ」
「見合い写真だ。釣書もいれてあるから、どれでも選べ。候補をあげれば手配してやる」
 柳生は、先日の夜のことを思い出した。うたた寝をしていた鳴瀧が、急に怒って帰っていった夜のことだ。理由はさっぱりわからなかったが、鳴瀧は柳生に娶れとかなんとか言い残して去っていったのだった。
「……弁当は俺がつくったぞ」
「弁当? 何のことだ」
 まさか、柳生の縁談話をまとめる気になったきっかけが、己の悪夢であると言う訳にもいかない。言いたくないどころか、思い出すのも憚られるほどだ。
「ともかく、龍麻には母親も必要だろう」
「うむ。それは俺もそう思うのだが…」
「そう言えば、龍麻はどうしたのだ」
 鳴瀧はさして広くもない柳生の家をくるりと見渡した。
「風呂に入っておる」
「風呂? 一人で入っているのか」
 驚いて聞き返す鳴瀧に柳生は少し苦笑し、説明しようと口を開きかけた。
「おとしゃー」
 バスタオルを肩にかけただけの龍麻が、たかたかと風呂から走って出てきた。全身から湯気が白く立ち上っている。
「なるたきのおじしゃん!」
「やあ、龍麻」
 龍麻は鳴瀧に駆けよって、裸のままでぎゅうと足に抱きついた。鳴瀧は見事に頬を緩め、龍麻を抱き上げた。
「一人で風呂に入れるようになったのか。龍麻は偉い子だ」
「ちがうのよ。おかしゃんと入ったのよ」
「おかしゃんというのは…母親ということか?」
 鳴瀧はぎょっと目を見開き、柳生を見た。
「いや、だから…」
「柳生先生、お風呂、すぐに使いますか?」
 そのとき、脱衣所の方からマリアが出てきた。  風呂上りで暑いのか、濡れた金髪はきれいにまとめ上げられている。一番上のボタンが外れてたブラウスの胸元から除く膨らみは、下着のないそれだ。化粧もしていないのが余計に色気を増して見せ、マリアは息を飲むほど美しかった。
 それが風呂場から出て来たのだ。
 深い仲ではないと、言い訳するほうが不自然である。
「き…貴様……」
 驚愕。
 鳴瀧は、それだけ呻くのが精一杯だった。
 まさか女を作る甲斐性があったとは!
 しかも金髪の美人ではないか!
 そう叫びたいような、なぜか裏切られたような微妙な痛みが、爪先から髭の先までびりびりと走った。
「邪魔をしたな」
「鳴瀧、待て」
 止める声も無視して龍麻を下ろすと、鳴瀧はさっさと帰って行った。背中にわずかに哀愁があったのは、気のせいではないだろう。
「おじしゃん、ばいばーい」
 龍麻は暢気であったが。
「…今の方は……?」
「うむ。古い友人なのだが…」
 柳生はげんなりと溜息をつき、ダンボール箱を見た。ずっしりみっしりつまった見合い資料は、狭い家には邪魔なことこの上ない。
「よくわからぬ男だ」
 途方にくれた呟きを、マリアは聞かないふりをして、龍麻の体を拭いてやっている。子供の着替えを手伝う女の姿というのは、なんと穏やかな光景なのだろう。柳生はしばし、見とれた。
「……母親か」
「龍麻のママにならなりたいわ」
「……何?」
 手は休めずマリアは肩越しに振り返って笑んだ。
 名前に違わぬ聖母のような笑みに、なぜか。
 柳生は胸騒ぎを感じた。


つづく。



   (初出:「柳生先生は心配性4」)