3 妖刀
歓迎会を兼ねた花見に出かけよう、そう言い出したのは蓬莱寺だった。
旧校舎での一件からというわけではないが、蓬莱寺、醍醐、美里、桜井と緋勇とはいつの間にかつるむようになっていた。編入してきて日の浅い緋勇であるから、親睦を図ろうという提案が嬉しくないはずもない。
友人は少ない緋勇だったが、決して人間が嫌いなわけではないのだ。
待ち合わせは夕方だ。少し空いた時間に、買い物に出る事にした。
東京に出てきて一ヶ月経つが、まだ慣れない場所だと緋勇は思う。第一に何をするにも人が多い。車が多い。ものが溢れかえっているうえに、鴉も多い。
「毎日、祇園さんみたいや」
小さな声で呟いて、スクランブル交差点を渡った。4月に入って陽気が続き、着替えがほしくなった。制服とTシャツがあれば十分だとは思っていたが、休日にまでそれというのも味気ないというものだ。
不慣れな街で買い物をするというのは、想像以上に難しいものである。どんな店がどこにあるかも手探りであるし、何より、東京には店が多すぎるのだ。
当ても無く駅まで出て来た緋勇は、やはりなんとなく百貨店の看板を目印に歩き出した。
平日の半端な時間であるせいか、ごった返すというほどではない通りを悠々と歩いた。日曜は車両通行止めになる場所であるが、今はちがう。狭い歩道は人の流れに逆らわないように歩くのが基本だ。
とりあえず、長袖のTシャツを何枚か買おうか、そう思ったとき。
不意に女の悲鳴があがった。
「ひったくり! 誰か、助けてっ!」
思いのほか近くに聞こえた声を聞き分け、緋勇は反射的にその方向を見た。野球帽にサングラスとマスクという、どう見ても怪しい人物がハンドバックを抱えてこちらに向かって走ってくる。
途中、何人かの通行人にぶつかり弾き飛ばすほどの猛烈な勢いだ。
緋勇は立ち止まった。
走ってくる男の正面に向き合い、ばっと両手を広げる。野球帽のひったくりは、一瞬怯んだ。が、速度を緩めず突っ込んでくる。控えめに表現しても、緋勇は細い。
全力で体当たりをして、負ける相手には見えなかったのだろう。
「どけよっ!」
野太い声が威嚇したが、緋勇は退かなかった。広げた両腕に力を込めれば、《氣》が満ちる。
ぶつかり合う衝撃音。通行人の悲鳴。
「…な、に?」
緋勇の腕はしっかりと、男の肩を掴んで止めていた。
「………っう」
緋勇は小さく呻き、一歩退いていた右足を戻した。掴まれた男は驚きのせいか、声もなく呆然としている。全体重をかけたタックルを、軽く止められたのだ。驚いて当然だ。
「ひったくりは犯罪だよ。警察に行こう」
緋勇に静かにそう言われ、男は急に我に返ったようだった。
「冗談じゃねぇっ!」
バッグを片手にもったまま、猛然と暴れだした。
「っん!」
緋勇は強い。仕込まれた古武術は、何十年も修行を重ねてきたかのように体に馴染んでいる。だが、物理的な意味での力となれば、話は別だ。
必死で暴れる大人の男を押さえつけるには、緋勇の腕力では少し足りない。男は闇雲に腕やバッグを振り回し、緋勇の腹や顔を叩いた。
「この…っ…」
こうなれば緋勇も必死にならざるを得ない。力一杯男を押さえつけようとするが、振り払われそうになり、一瞬《氣》が昂った。
この野郎、殴ってやろうか。滾った《力》が弾けようとした。
「ぐぁっ…!」
男が突然、暴れるのを止めた。
「ひったくりに、暴行か。立派な犯罪者だな」
怠い声の主に、緋勇は見覚えがあった。生物担当の犬神杜人である。犬神は、ひったくりの男の手首を掴んで後ろ手にひねり上げ、完全に動きを封じてしまっていた。
「緋勇。お前、その技、どこで覚えた」
「…え?」
事も無げに男を拘束したまま、犬神は緋勇を睨みつけた。殺気に似た《氣》が緋勇の肌を刺す。
「…犬神先生」
「あの…ありがとうございました!」
追いついて来たバッグの持ち主らしい女が、緋勇と犬神に頭を下げてそう言った。犬神は面白くなさそうに礼を受け、また緋勇を見た。犬神の視線は、学校で見たのと同じ気怠いものに戻っている。
「…こいつは俺が警察に突き出しておく」
「ありがとうございます、先生」
緋勇は犬神に一礼し、その場を立ち去った。
大蝙蝠、《声》、不思議な《力》を手にした級友達、そして犬神。
自分を待つ何かが確かに動き出したことを、緋勇ははっきりと感じた。
だがわからないことばかりだ。
目隠しをされて見知らぬ土地に転がされたような不安はこれまで味わったこともないものである。いい気持ちなわけがない。
緋勇は内にもやもやとするものを抱えたまま、新宿中央公園に向かった。花見客で賑わう公演の入口あたりで美里とちょうど一緒になり、他のみんなとも迷わずに合流できた。
「緋勇クン。もう東京には慣れたかしら?」
京都から東京へ出てきて間もない緋勇も異邦人だ。マリア・アルカードは担任教師であり、東京暮らしの先輩というわけである。
「地下鉄路線はまだぜんぜん言えませんけどね」
京都の市営地下鉄は二系統しかないシンプルさだ。東京に張り巡らされた蜘蛛の糸のような地下鉄網とは比べようもない。
「そうね。……それは先生も苦手だわ」
マリアが赤い唇の端をきゅっと持ち上げて笑った。
「うほっ…」
横で見ていた蓬莱寺が飲みかけのジュースを軽く噴いたくらいには魅惑的だ。
「京一! きたない!」
ばしっと決めつける桜井と一緒に緋勇も笑った。だが、胸の中のもやもやとしたものが疼くように痛んだ気がした。
ちょうどそのときだった。
つんざくような悲鳴が、中央公園の奥から上がった。
「何だっ?」
すぐに醍醐が立ち上がったのはさすがだった。ケンカや騒ぎに慣れている分、反応も早い。緋勇はわずかに遅れて、声の上がった方を見た。
感じたのは凝った『氣』だ。あの『声』を聞く度感じるのと同じものだ。
「……醍醐、行こう」
「ああ」
視線を交わして頷き、走り出すと、蓬莱寺も一緒についてきた。頭を過ぎるのは旧校舎での怪異のことだ。わき出したように現れた大蝙蝠はどう考えても普通の生き物ではなかった。
あれが学校内のことだけだと、どうして言えるのだろう。沙草の例もある。
果たして。
緋勇達の目の前に、血刀を提げた男がふらふらと現れた。返り血に塗れているが、着ているものからしてサラリーマン風の男だ。細身で、ちんぴら風でもない。足もとには花見客と思われる数人が転がっていた。あたりは血の海だ。
「貴様っ!」
醍醐が怒号をあげた。
だが男は焦点の定まらない目でどこも見ず、ただふらふらと歩いている。悲鳴を上げて逃げる人々が、緋勇の傍らを走り抜けていった。
「緋勇クン! 醍醐クン、蓬莱寺クン!」
背中に、追ってきたマリアの声がした。だが緋勇は振り向かなかった。
「…この男が、『声』の主なのか?」
呟くともなく言葉にし、緋勇は制服のポケットから手甲を引っ張り出した。警察ではだめなことは感覚でわかっている。
目の前の男は、緋勇の戦うべき相手だ。
「緋勇、行くぜ!」
場に相応しくないほど明るい蓬莱寺の声はそのまま勝利宣言だった。
つづく。